序文
クリスチャンの集まりは、集会・教会・エクレシア・ハウスチャーチなど呼称形態は様々あるが、信者が増えたり減ったりする理由は一様ではなく、指導者の質に人の増減が直結していない例もある。
前回記事「現代の偽教師たち2」で、建物の大きさ・繁栄が教会の働きを「正」とする測りではないとお伝えしたが、集う信徒の数もそうである。
確かに指導者の人格に多大な問題があって教会員が離れ人が減るケースがある。
ところが反対に良き指導者が、馴染みやすい説教(自分の健康、自分の繁栄、真理ではなく道徳的な勧めなど)より、強く御心に沿った説教(キリストの弟子訓練、霊的戦い、徹底した神への従順など)に重きを置いた途端、不快に感じた信徒が大幅に去った教会の現実も見聞きして来た。
この場合信徒の側に、現代社会に生きる者たち特有の、文化的腐敗に心が占有されている問題が垣間見える。
クリスチャンと言いながら、心の深い領域には未だ主とひとつになれない罪を抱えながら生きている場合、神への徹底した従順に私たちは反抗する性質を持つため抵抗する。それが罪の本質と言える。
「昨日と変わらない今日」を生きたいという安定欲求が強すぎて霊的怠惰になったり、「周りに波風を立てずひっそり自分の心の中だけでイエスを信じていれば良い」などと文化的圧迫から隠れキリシタン化したり、「未信者に伝道したり貧しい人を助けるのは私の重荷ではない」とイエスの教えに真っ向から反対して立ち、救われた者がなすべき務めに耳と目をふさぎ続けるのも不従順の特徴である。
神の真理は人間本来の自己中心に光を当て、霊魂のすき間(霊と魂の人格的相違)も鋭く刺し通し、心の奥深くを探られるため、神より自分の充足感を選択した生き方のクリスチャンにとって受け入れ難い窮屈さや不快感をもたらす。
世的満足感を追求する自己中心性を放っておくと肥大化し、真理を見分ける目は曇る。
だが、もしもあなたが世の偽りに惑わされず、神の真理に満たされ、御心と一致した信仰生活を望むなら、今回のテーマ「偽りから自分を守る」ための、最も大きなポイントをあげるので目を留めて欲しい。
御霊から来る「霊を識別する」賜物である。
ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。(Ⅰコリント12:10)
日常生活に潜む悪習慣
偽りの霊の惑わしを受けている人の中には、良心の麻痺により霊を見分ける力が衰えている人がいる。
(これ位、憐れみ深い神は許されるだろう)
そう思って、小さな違反を犯し続けている間違った習慣はないだろうか。
・神の御国にふさわしくない音楽を聞き続ける
(音楽は眠りと同じくらい人を霊的状態に誘導する)
・性的場面や暴力いじめなどの場面が含まれた情報(画像・映画)を好んで見る
(一瞬であっても観る事に合意したものは、私たちに影響を与える)
・神様と親しく交わる時間はわずかだが、スマホでSNSや動画視聴・コミックを観る時間がはるかに長い
(時間を割く割合を逆転させないと、不信仰の霊が入りやがて聖書も読めなくなる)
…数例だが、細かく普段の生活を聖霊にチェックしてもらうと、色々な神に喜ばれない領域が見つかるだろう。
悪習慣は最初の合意から始まり、習慣と化して罪に至るもので、命を投げ出し救って下さった尊いお方を再び遠ざけるなら、代わりに悪しき霊が働き、不信仰なマインドにとどめ置かれるのである。
すべては「合意」から始まる
私自身ーつい最近の事だが、ある映画を観ていた時のこと。
思いがけず性的場面が続き、いつもならすぐ観るのを止めるか早送りするのだが、その時(どうせすぐ場面が切り替わるだろう)とそのままにした(合意)
するとその夜、眠りの中なのに起きている状態と同じ鮮明でリアルな感覚があり、不品行の霊が私に対し性的行為をしようと現れたのである。
すぐにイエスの御名で縛り悔い改めたが、敵は絶えず私たちを訴え、破れ口が見つかればすぐさま攻撃を仕掛けて来ることを改めて感じた出来事だった。
悪魔や魔術師などは良心を麻痺させ(何でもない、これは良いことだよ)と思わせる強烈な惑わしの魔術を使う。
私たちは地上生涯の間、肉体を持って生きる存在ゆえ、世の支配者から絶えず肉の誘惑にさらされており、イエスの血潮の覆い・聖霊の守りが必要なのは言うまでもない。
せっかくの神の守りにより閉じられた霊の扉を自ら開かないように、罪を徹底して避けるべき理由がここにある。
※ここでも霊の世界は「契約」で成立していることに注目して欲しい。
悪い考え、汚れたものを受動的になりそのまま受け入れたり、能動的に取り込んだり、そのすべてが合意とみなされ、悪しき者たちに攻撃を許す行為となる。
罪を犯す時、思わずそのつもりがなく犯してしまう罪もあるが、イエスの教えに背いた「違反」の状態を長く続けるなら、人は、神へ反逆したサタンの属性に変わる。
これを不義と言う。
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ1:18)
「主はご自分に属する者を知っておられる。」
また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(Ⅱテモテ2:19)
不義の状態が長く続くと、人生の様々な面に機能不全が表れて来るだろう。
また不義の人は必ず周囲の(特に家族や親しい人)善意の人々を踏みにじる生き方になるため、人間関係に破綻が生ずるのは時間の問題である。
特徴は傲慢・不敬虔・愛の欠如・自己愛性人格障害に代表される過大な自尊心や賞賛を求める性質など、実にサタンの性質と一致する。
ところで、私はこの性質の人々を知っている。
イルミナティ血族や悪魔崇拝者たちーとりわけ自らすすんで赤ちゃんを生贄に捧げて食べたりレイプしたりしている人々で、宇宙規模で人の魂を売買したり、次元や時間軸を操っている者の多くが、正常な人間性を欠いている。
巨大教会を隠れ蓑にする闇の者たち
彼らは世界中にネットワークがあり、政府・軍・大企業を筆頭に、厳格で保守的と思われる教会にも、ずいぶん昔から入り込んでいるようだ。
以下は、スーパーソルジャープログラミングから主イエスに解放された女性の証しの動画だが、巨大なプロテスタント教会の多くの指導者(神学校も)サタンの支配下にあることを、実名をあげて告白している。
(彼女は大統領や有名牧師たちに所有・プログラミングを受けていた)

(URLはこちら)
内容が衝撃的なので、いずれユーチューブでは見られなくなるかも知れない(すでにpart3は削除された)
気になるかたは、上のURLから動画をチェックして欲しい。
なぜ巨大教会がサタンの支配する世の中で繁栄出来るのか、その意味を考えれば分かる。
(もちろん彼らも一枚岩ではないし、神の守りが強く働いている教会もある)
人の知性には素晴らしい神学や指導者に見えたとしても、多くの惑わし・誘導・洗脳が隠されている事例がある。
しかも彼らが強調して説く教理の多くは、彼らが教会に安全に身バレせず潜伏する隠れ蓑として機能しており、決して信者の信仰のためではない。
例えばこうした保守的教会では「陰口は言わない」とか「親に絶対逆らってはならない」という教えがある。
一見聖書的に思うかもしれないが、彼らの闇に仕える怪しい行動(教会での悪魔儀式その他)が外部に漏れないための誘導であり、親(血族もしくはそれに仕える)がハンドラーや代理父母だった場合、子供が彼らに従うことは洗脳の一部なのである。
暗闇の偽家族が巨大教会に多数存在していたとしても、周囲からは「日曜日に家族仲良く礼拝に集い、祈り会に参加し、地域のために働く立派な家族」と映る。
こうした欺瞞が世界各地のキリスト教会で起こっている中、日本の教会は大丈夫と思わないで欲しい。
私は10年以上前から、日本のキリスト世界の有名牧師の正体を主イエスから数回に渡って啓示されている。
このブログを通して、何度もお伝えしている主からの言葉がある。
「人に依存せず、聖霊に聞き従いなさい。」
これしかない。
イエスキリストと御霊に寄り頼むしか、私たちの霊的目が真実に開かれる方法は他にない。
霊的識別力がないと嘆く人は、激しい霊の飢え渇きを持って聖霊に強く霊を識別する賜物を求めて祈って欲しい。
私たちの神は求める者に与える神である。
目は語る
40日間断食以降、主イエスは時折私に、人の霊の実像をお見せになることがある。
ある日、有名暴力団のトップが警察に捕まったニュースを見た時、彼らと周りの組員たちが生きながらに般若の顔で悪霊化している者や死霊に憑りつかれているのが見え、顔の半分が腐れ落ちていたり、片目が潰れていたりした。
もちろん霊的姿である。
上の動画であげられている牧師や神学校校長の写真を見たことがあるのだが、共通した著しい特徴がある。
目である。
目は隠せない。
サタニストやレプティリアンの目の光は異様であり、笑顔でも(かえって恐い)邪悪な光で、特に片目がおかしい。
どんなに腕の良いカメラマンに頼んで撮ってもらった写真でも、である。
爬虫類型に関しては、口元が異様に裂けているかの如く口角が切れて上がっている者が多い。
これに関しては、私だけなく多くの人が気づいている特徴に思う。
堕天使たちと血族たちによる邪悪な人々、人と機械・生き物が融合した者など、創造主の御業にはおよそ及ばないが、闇の世界でクリエイトされた者たちが数多く出現する(している)時代に入っている。
外面に流れ出る邪悪な霊性や、指導者が強調する教えの心理的背景など、偽りを見抜くポイントは必ず存在する。
偽りの霊に支配された者たちの集会や動画・書籍など、いかなる物にも関わりを持たない様気をつけたい。
霊の親という偽り
クリスチャンの方は、自分を救いに導いた人に「霊の親」と言われた事はないだろうか。
この世界では頻繁に耳にする言葉だが、ここにも大きな偽りが存在する。
確かに救われた人にはバランスのとれた安心できる霊的指導者がいた方が良い。
良い指導者ならば、である。
しかし指導者でも教師でもなく、「親」となると話は別である。
ー私自身の証しである。
救われた時、自分と年齢差のない牧師夫婦に「私たちは霊の親だ」と言われ、何とも言えない違和感を持った。
その後「霊の親」は教会世界でよく聞くワードと知り、周りの信徒たちもそれを受け入れていたので(そんなものなのか)と自分も霊の親という概念に馴染んでいった。
ところがほどなく「牧師権威に従え」と教会がカルト化して行き、不穏な空気の中、聖霊が「落ち着いて、慌てずに教会を離れなさい。」と導いて下さり、大きな害毒を受ける前に脱出できたのだが、体にとんでもない異変が起こった。
へそから血が出て止まらなくなったのである。
病院に行っても理由は分からず、どんな薬を使っても効果はなかった。
この状態が1か月続いたのち、主は私に夢の中で啓示を与えた。
「あなたに恐れを与えている者の正体を見せる」
すると聖書を手にしたデニム姿の人物が見えた。
…その顔は「霊の親」と言った牧師だった。
この夢のあと、「霊の親と言う呪いを砕き、霊的へその緒を切りなさい。」と祈りに導かれ、その通り祈ると翌日へそからの血が止まったのだ。
念のため解き明かすと、へそは親と子を結ぶへその緒がある場所で、「霊の親」という言葉の呪いにより、へその緒がちぎれた霊的状態が肉体にまで及び、教会を去っても呪いの束縛は有効のため、唯一の力あるイエスの御名で呪いが断ち切られたのだ。
ここまでひどい状態になったのは、常日頃から牧師たちに「教会の覆いから出ると危ない」と脅されていたことも影響したと思っている。
この実体験から私ははっきり言う。
霊の親という概念は呪いだと。
そのことで祝福を受けている人や、安心感を得ている人もいるかも知れない。
それでも聖書的に言って、やはりおかしいと言わざる得ない。
なぜなら
私たち救われたすべての者にとって、霊の親は「天のお父様」である。
この事に異論のあるクリスチャンはいるのだろうか。
なぜ、父なる神の子とされた私たちの間に、わざわざ人が入り込んで「霊の親」と名乗るのか。
ここにも霊的支配構造の偽りが存在している。
牧師たちの心の根底に、救われた人を教会に半永久的に縛り付けておきたい無意識的意図はないだろうか。
「親」と言われたら、容易には離れられない、強力な磁石のような言葉である。
私もこれまで福音を伝え、様々な人を伝道し救いに導く祝福にあずかって来たが、「私はあなたの霊の親になります。」とは、これからも決して言うことはないだろう。
人が父なる神の座に座ることは許されていない。
私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
(へブル12:9)
まとめ
偽りの霊を見抜くポイントをまとめる。
◎ 聖霊に霊を識別する賜物をいただく(熱く祈り求める)
◎ 聖い生活を心がけ、罪は徹底して避ける
◎ 人から出た教理・神学より、神そのものを第一とする
◎ 外面に表れている特徴を心に留める
◎ 強調された教えの背景を考える
以上である。
迷った時はすぐ神に聞いて欲しい。
すぐ心に語りかけられることもあるし、時が経ってから人や情報・ツールを用いた形で教えられるかもしれない。
どのような形でも必ず神は答えて下さる。
人は完全ではないので時に判断ミスも犯すが、主は決してあなたを偽りの中に捨て置かない。
今回書ききれなかったテーマは、またの機会とする。
最後にお読み頂いたみなさんに、この御言葉の祈りを贈る。
私は祈っています。
あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。
またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。
(ピリピ1:9-11)