序文

聖霊の賜物は様々な種類があり、Ⅰコリント12章には「奉仕の賜物、癒しの賜物、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言(その解き明かし)」とある。

今日の教会で、指導者の言うことに良く従い、ただ黙々と教会の雑事や諸用をこなしてくれるクリスチャンを牧師が「奉仕の賜物」があると言って褒めるのを聞く。
牧師の言う「奉仕の賜物」に満ちたクリスチャンだらけなら、教会運営者にとって楽に違いない。

だが物理的運営の諸々を重視し過ぎると、教会の霊性は希薄になる。
むろん会計・掃除・準備…と言った現実問題を適当には出来ないし大事に違いないが、そこにばかり注力していると本来教会の一番肝の「霊的成長」や「信仰の健全性」がおろそかになる。

奉仕、奉仕とブラック企業のように教会運営に身を削られ、消耗して教会を去って行ったクリスチャンも少なくない。
しかしこの人たちは本当に奉仕だけが賜物だったのだろうか。

今回は生きた聖霊の働きについて考えてみたい。特にこの記事では、癒しや奇跡を伴う賜物に焦点を当てる。

こういう話をすると「聖霊体験ばかり強調する信仰はすぐつまずく」とか「正しい聖書解釈を学んでいない者はバランスが悪い」と論点ずらしを試みる人がいる。
しかし成長したクリスチャンであれば聖書知識も霊的体験もどちらも重要であることは心得ているはずで、今回はその点にページを割かない。

記事を書くきっかけ

そもそもこのような記事を書く思いを強く与えられたのは、コロナ禍に良く見ていたクリスチャン動画において、癒しや預言の働きを過去の使徒時代に限定したものと言う、事実と解離かいりした内容が語られていることに大きな違和感を持ったことがきっかけだ。

「癒しがたくさん起こったのは使徒時代に必要な働きだったから。」
「預言は聖書で完成している。現代において預言(者)はない。」

こうした発言は神の働きに対する大きな不信仰が根に潜んでいる。
その団体や牧師がキリスト教界で尊敬や信頼を得ている場合、動画や実際の集会で見て聞いた人々が内容を鵜呑みにしたり、賜物を封印する不幸なケースにまでミスリードされる懸念がある。

それくらい真面目な気質を持つ日本人クリスチャンは牧師権威に弱い。

現代にも聖霊の癒しや奇跡は起こっている

日本にも癒しや奇跡を行う賜物を用いているクリスチャンはいる。
また、毎日のように癒しの起きている教会は今も実在する。


これは私が20年間に出会い見てきた事実である。

世界に目を広げると事態はさらにはっきりして来る。
私たちは現代でも建物の教会に限らず、むしろ社会的迫害の只中で集まることを止めない地下教会や、小さな群れであっても人々の魂の救いに「動いているキリスト者の集まり」には、聖霊が制限なく非常に活発に働かれることを知っているのではないか。

これらは「癒し」や「預言」を商売や占いのように扱う、カルト団体教会とは全く関係ない別物の働きである。

癒しに関して言えばどの時代にも、いやますます時代が悪くなる現代に「癒し」が必要ない人などいるだろうか。

死ぬほど痛みに苦しんでいる病人を面前に「癒しは現代ではたまにか起こりません。それよりもキリストの福音を受け入れて下さい」などと言えるか。

むろんこんな言い方をするキリスト者はいないだろう。
が伝道する際、祈る際に自分の心の内側に、そうした冷たい聖書観が横たわっていたら、果たしてそれは相手に伝わらないだろうか。

私たちが思っているよりずっと未信者は敏感だという事実がある。

癒されないケースもあることは身を持って知っている。
けれども我が神は他ならぬ、憐れみ深い神イエスキリストである。
隣人のために「癒しの賜物」を聖霊に強く祈り求めることがどうして御心を損なうことがあろうか。

聖書にこう書いてある。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」

この御言葉の奥義は偉大だ。
この御言葉に信頼して祈る時、人はおのれの足りなさを補い余りある、父なる神の空より広い愛の懐に入る。

私はある時、地上世界の外国語でなく、天国語のように思える異言を発している場合の、明確な意味を知りたいと強く思った。
その頃よく口から出る異言の解き明かしを、主に求め祈った。
すると、ほどなくこの意味を教える主の声が、心にズシンと響いた。

「求めよ。さらば与えられん」

主よ!あなたはまさしく恵みを代々にまで施す深い愛のお方です。

わずか一言の異言の解き明かしだが、それは信仰の宝となった。
以来、この異言を語るごとに霊的祝福を頂いている。
(2に続く…)