ざっくり生い立ち
HeavenWorks Ministry 主催者 天門恵子です。
これまでの歩みについて、どこから書くかどこまでが証しとして有効か悩むところですが、生い立ちについて書くと本3冊分位は優にありそうです。
今回は生まれた時からクリスチャンになるまでを重点に、象徴的な出来事を中心に証します。
幼少期からの虐め
産まれてまもなく両親離婚。祖母に育てられる。
生後6か月で腸ねん転で生死をさまよう。奇跡的に生還。
幼児期 何のキリスト信仰もない祖母であったが、近くのカトリック系保育園に私を通わせる。
クリスマスのお遊戯会で先生に、主役のマリア役に指名された。
私は小さ過ぎてその意味が分からず、ただ先生に言われるままイエスを模した赤ちゃん人形を持っている座っているだけだったが、幼子たちから激しい妬みを買い、会が終わると講堂で園児全員が壁際に座らせた私の前に一列に並び「バカ」「死ね」などと一人ずつに悪口を浴びた。(人生初のいじめに遭う)
しかしー今思えばイエス様に心が守られていた。
私はまだアホ幼かったため、何かそういう遊びなんだと思ってその時は笑って楽しんでいた(!)
このいじめはのちの私の人生の受難を象徴する出来事だった。
3~5才の園児全員が、主役に選ばれた私に激しい嫉妬という感情を持ったが故に、立派に(?)サタンに用いられて全員で攻撃して来たのである。
この出来事は、人間の魂に「原罪」が存在することが証しされている。
つまり子供は決して天使ではなく、幼児にも心の闇が存在し、キリスト系の保育園であっても、教会であっても、側はあくまで箱であり、中に邪な思いを持つ者がいれば、幼児であれ聖職者であれサタンの「クリスチャン殲滅計画」に利用されるという真実をこの一事に見出す。
最もそこまで霊的な事柄に深い理解が得られたのは、救われた後の学びによる。
こういう御言葉が聖書にある。
「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。
しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。
それで世はあなたがたを憎むのです。」 (ヨハネ15:19)
救われるちょっと前に、これまでの人生が苛めの連続であったこと、それはすでに幼児期から始まっていたことを牧師に話した時、非常に異様な霊的出来事であると指摘された。
その瞬間、理解不能だった私の人生を覆う靄が消えた。
そして上記聖句を見た時、はっきりとこれまで私の人生を苦しめていたものの正体が分かり、真理に目が開けたのである。
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
(ヨハネ8:32)
保育園後も、小中高も、どこへ行っても異常な妬みや怒りをぶつけられ苛めに遭った。
小学生の一時期、父の再婚先で同居すると、父からの暴力虐待により生来の朗らかだった魂は怯え恐怖に縮こまった(おそらくこの頃からすでにうつ病を発症したと思われる)
不気味な事に、絶えず変質者に狙われたり誘拐されかけたりもした。
生きた心地がしない日々に、幼いながら(何かに自分は呪われているんじゃないか、いや自分が魔物なのかも知れない…)とまで思いつめていた。
だがこの世は人の罪によりに呪われ、救われることがあらかじめ定められている者たちは、この世に産まれる時からサタンとこの世に激しく妬まれ憎まれ命を狙われている存在だという事実
ーこの啓示により、常に心に引っかかっていた(なぜ自分ばかりが)という孤独から解放された。
もっと言えば神の愛する人間全てがサタンの妬みの対象なのである。
世を見れば一目瞭然で、信じられない奇病や産まれたばかりで難病に苦しむ赤ちゃん、地域の呪いにより長らく飢餓に苦しむ国々、戦争による犠牲者、そこに人間の罪(憎しみ・貪欲・悪魔崇拝…)という破れ口があれば、悪霊たちはすぐにやって来て、人を苦しめ命を奪おうと働く。
しかし闇があるところに光があり、真の神が存在する。
だから私たちは、殺されそうでも生きており、死にかけても助けられ、神の定めた寿命の時まで、この地上で生かされるのである。
たとえ私たち人間が罪深く、弱さから人生につまづいても、救い主イエスに心から悔いて赦しを乞うなら、神の愛と憐れみは尽きることがなく、苦しみの中に突破口を開いて下さる。
祖母について
祖母は非常に宗教心が強かった。
明治生まれの人の思想らしく、天皇や日本神道仏教等を熱心に拝んでいた。
若い頃、井戸から竜が登って来るのを見て以来霊感が働くようになり、ある時期祖母の信者までいたらしい。
竜は聖書的にサタンの属性であり、日本においては神社や寺を通して働き、混沌と破壊をもたらすが、彼女の人生も戦争の時代に生まれた様々な不幸と耐え難い困難、親しい者からの裏切りに幾度となく遭い、悪魔に蹂躙された人生を送った。
懐の大きな人で包容力と頭の良さを持っていたが、貧しい幼少時代の不遇で教育を受けられなかったため、文字を書くのが不得手だった。
ある時、祖母が役所に自分の経営する飲食店の届けを出しに行った時、私も隣に座っておもちゃで遊んでいたが、意地の悪い担当職員が祖母に
「住所も名前もろくに書けないのに店をやる気か。そこの娘にでも書いてもらえ。」
とせせら笑って言ったのを、幼子ながら憶えている。
祖母は悔し涙を流していたが、文字を書くのは難しくとも記憶力と計算力はずば抜けていた。
祖母は店に団体客が来ると、小料理と酒などの飲み物のオーダーを伝票にも書いたが、7人いたら7人分のオーダーしたものを全て暗記し、ひとりずつの会計も間違えることなく暗算出来ていた。
これにはいつも他の従業員も「かなわないわママには」と驚いていたが、今思うと教育を受けていない事から様々な所で苛めに遭い、人目に付かない所で相当な鍛錬を積んで計算力を高めたのではないかと思える。
認知症になる数年前まで、祖母の家に帰省すると、必ず祖母は〇年〇月〇日に誰それが来て…という詳細な昔話をするのだが、個人的な事も国家的事件も実に正確に覚えていて、その記憶力には皆舌を巻いたものだ。
家系の罪
学生時代勉学が得意だった私は、宗教や倫理といった精神世界も好んで学んでいたが、なぜか祖母が毎日仏壇の前で拝むその祈りが嫌いだった。
〇〇さん成仏して下さい。先祖様〇〇を守って下さい…等長い念仏が続くと空気がよどんで感じられ仏壇周りが黒いオーラに包まれ、仏壇が呪いの箱に思えて仕方なかった。
時は過ぎ、私は成人し社会人となった。
やがて祖母が認知症になり、介護施設に入所することになった。
90年も生きて来た人の大荷物を片付けるのは容易ではなく、リサイクル業者に様々売り払ってのち、例の仏壇が残った。
今の私なら相談などせず処分しただろうが、正しい霊的知識のない当時。
叔母に聞くと「もう中身(位牌とか)は先祖の墓に持って行ってあるから魂抜き必要ない」と言う。
面倒な宗教儀式が必要ないと聞き、私は裏のゴミ捨て場にそのまま捨てた。
(当時ごみの分別義務がなく、簡単に物を捨てられた)
その時、非常に気分がすっきりしたのを憶えている。
心が晴れ渡る空のように明るくなったのである。
そして直感的にこんな思いが湧いて来た。
(私の人生の呪いが晴れた)
のちにキリストに救われる私に、御霊がこの啓示をお与えになったと思う。
人や神でないものを拝むー偶像崇拝の罪がどれほど呪いを、本人だけでなくその子や孫に至るまでもたらすかを、主はこの仏壇処分を通して私に教えて下さった。
家系の罪を通し手痛い教訓を味わったからこそ、多神教の氾濫する日本で、今ぶれずにキリストにつながっていられるのだろう。
後にクリスチャンになった私は、祖母にキリストの福音を伝道し、祖母は涙を流して祈り、イエスを受け入れた。
認知症になって久しい当時だったが、主はその時だけ祖母を正気に戻して、救いに導いて下さった。
祖母は103歳まで生きて、天に召された。
活気に満ちた日々
実際仏壇処理の直後、私の実力に不相応な好待遇の仕事が与えられ、高収入で生活は一気に安定し、活気づいた。
同じ頃なぜか心に(占いは悪いもの。呪い)という声が数度響き、中学時代から持っていた占い本を全部捨てた。
すると今度は心身が元気になり、それまでの耳鳴り、頭痛、めまいが酷くて常にふらふらしていた危険な身体症状がすべてなくなった。
バブル時代もバブル崩壊後のしばらくも、当時の社会は今とは違い好景気に沸いていた。
それもあって私は(今の仕事を辞めても職に困ることはない)という妙に確信めいた自信に満たされ、事実これは神の祝福としか言いようがないのだがどこへ面接に行っても、その職場で最も権威ある人に気に入られた。
神が介入された事象なのだが、不遇な人生を主が憐れんで下さり、私にとって大きな慰めを与えられた時期となった。
さらにこれも今思うと不思議だが、自分が経験のないフィールドにおいても何故か映画「マトリックス」のように、その場で必要な能力が即座に降り、一を聞いて十を知るといった具合にすぐ「全て理解した」状態にされたことも度々あった。
それによって「出来る人」という評価を受け、若くして管理職待遇になったのも、1度や2度ではなく何度も別々な職業で経験した。
ゆえにはっきりと言えることは、好待遇は全く私の知識実力によらず、真にイエスキリストという神からの祝福の油が注がれていた事による。
全て神からの一方的な恵みなので私自身何一つ誇ることは出来ず、ただただ神の栄光として賛美するしかない。
翳り
しかし人間というものは、この世的な好調の中にあるとどうも必ず慢心する生き物らしい。
このあと、とんでもない不幸の連鎖に私は死を決意し、自殺を試みるようになるのである。
それは次回の記事に綴る。