時と召命
神の様々な働き(宣教、伝道、預言、礼拝、祈り会、解放、学び、弟子訓練他)に就く際の信徒の動機を見ると、強く導かれその働きに置かれる神の召命によるものと、自分自身の魂の思考や肉的思いから勇み足で入る場合と、大きく分けて2つのパターンが見受けられます。
1つめの働きは、普段から神の御心に心を寄せて祈り、御言葉を学んでいる、日常生活の可能な限りの時間を主イエスに注いでいる信仰者が強い確信や啓示が伴う形で召命を受けやすいでしょう。
このようなクリスチャンは信仰の土台がしっかりしているため、困難や気落ちする事があっても必ず立ち直り、御言葉に癒しと解放を受け取り、さらなる霊的成長につながります。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(マルコ4:20新共同)
2つめのケースで、救われたばかりの大きな祝福体験の中で心が先走り、主から見てまだ充分な準備が整わないうちに実践的な状況に自分を置きたい衝動のままミニストリーに入った場合、困難やまだ解放されていない心の領域の傷が浮かび上がってつまづくと、簡単に信仰を失う事も起こりがちです。
「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 」(マルコ4:16-17新共同)
ところで、神学校に通うことは主の働きに就くための十分な準備となり得るでしょうか。
必ずしもそうならない人々の実情もあります。
体系的な学びには祝福もありますが、聖書知識が増し加われば信仰も比例して豊かになるかと言えばそうでもなく、やはり信仰は主イエスとの個人的な関係が最も大切な基盤であるため、そこがおざなりのまま魂(思考)ばかり駆使しても、信仰は心で作られるものゆえに、霊的成長が育まれ難くなります。
神学校に自主的に通う信者は、卒業して宣教師や牧師になるとパターンが多いですが、その思いが神の用意したその人の召命・巻物に沿ったものであれば良いですが、人の考えと神の考えは違います。
例えば教会や宣教ではなく、特定の企業や特定の居住区で伝道することがあなたに与えられた召命である事もあり得ます。
またその場所へ赴くべき時も「神の時」が存在します。
それゆえ神の召命を受けるには、啓示の霊を求め、謙遜と忍耐を持って主の御心を伺い、御霊の声に敏感になる事は必須です。
ある時、主との会話でイエスが言われた言葉が印象深く今も残っています。
「ほとんどの信仰者が神の召命と違った生き方をしている。」
この時の主の言葉には残念という思いが強く感じられ、同時に神の任務を引き受ける者の人数の少なさを物語っているようでした。
祈り会の意義
HeavenWorks Ministryでは、毎週金曜よる10時に「日本と世界の祝福を祈る会」という祈り会を行っています。
祈り会に与えられた少数のメンバーたちは現在、主による多くの解放を受けながら祈りの共同体の柱となるよう歩みを進めています。
ここからは祈り会の意義について考えてみたいと思います。
祈り会を始めた経緯は、主から日本へ警告の預言を受け大至急に始めた働きでしたので、私一人でも行い続けようと心に決めていました。
主はほどなく祈りの兄弟姉妹をお与えになり、またミニストリーを始めたのを境に、これまで長年支援伝道して来た方が突然救われ病を癒される奇跡も起こされ、さらに励ましと祝福を受けました。
霊の働き
祈り会における霊は単独では働きません。
この聖句をご覧下さい。
「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」
(マタイ18:20)
主イエスが二人から人数を語っておられるのは、まさしく二人以上の共同体の祈りの場にイエスがおられ、神の権威が発動する事を示しています。
では単独で祈る個人の祈りの場には、イエスはおられないのでしょうか。
1人の祈りは弱いものでしょうか。
いいえ。
決してそのような事はありません。
何事も信仰です。
揺るがない大きな信仰を持って祈るなら、その祈りは天地を揺るがし、主は目の前にいて、共にとりなして下さいます。
実際に私ひとりで祈る時でも、例えば食事への感謝の祈りでさえ主イエスの臨在があります。
祈り会は、とりなすテーマが個人で祈る時よりも大きいため、聖霊の一致による共同体が発する祈りに神が大きな力と権威を与え、主イエスも共にいてとりなして下さる事により、祈りは瞬時に神の命令として地に走るのです。
(当祈り会では、地域や国家、地球、大宇宙に至るまで広範囲なとりなしのため、1,000万人の神の天使たちと共に祈っています)
「主は地に命令を送られる。そのことばはすみやかに走る。」(詩編147:15)
おそらく私1人の祈りでも、ある程度は地に影響を与えるかも知れませんが、御霊により心を一つにして祈る共同体の発する祈りの言葉は強大なパワーの衝撃波として祈る対象へ伝わります。
すべての言葉には周波数があり、波動と振動があるからです。
神が天地・宇宙のすべてを御言葉で造られたように、イエスに新しい命与えられた聖徒たちの言葉には、イエスが持つ言葉の創造力と同じ力が宿っています。
神から来る強大な言葉の力を駆使して祈るなら、祈りの戦士の言葉は神の武器となり、私たち自身が神の秘密兵器となります。
祈り会の意義は、御心と一体となった祈りにより、悪しき時代にあっても地上に御国をもたらす事が可能な、今起きている事実を神の真実に置き換えることにあると言えます。
いつも書いている事ですが、霊の世界で起きたことが、物理的世界に反映されるからです。
言葉の周波数
全ての被造物は周波数を持っています。
周波数が音、光、信号に表わされているのは、創造主である神のご性質に由来している事を示しています。
神は言葉により、世界と人間と生き物を造られました。
「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」(創世記1:3)
「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 」
(ヨハネ1:3新共同)
音を発する言葉にも周波数があり、霊の世界では周波数により物が造られ、また破壊され、人が呪われり、祝福されるのも言葉が発する音による周波数が働いています。
共同体の祈りが常に互いに信頼し合い、一致した祈りでなければいけない理由です。
解放の重要性
もしもメンバーの中に、心に苦い思いを抱いたり、疑い、不和、恐れなどを持つ人が現れ、不一致の状態で祈ったなら、その祈りは力弱いでしょう。
人は自分の心の破綻に合わせて、神を疑い、同時に人を疑いで定義します。
霊魂の解放に携わると、疑いや恐れが強い人、苦い思いや間違った考えを手放せない人が、こちら(解放を導く人や指導者)に八つ当たりして感情を転嫁される経験をよくします。
傷が浮かび上がった時、心の奥底に長年しまっておいた激しい感情を、その傷に関係のないむしろ自分に好意を持ち接してくれる相手にぶつける(無視という形の転嫁もある)ことでフラストレーションを発散しているのです。
解放の後冷静になられ謝られることもありますが、ネガティブなマインドをどうしても手放せない人もいます。
このような人の放つ周波数は非常に低く、御心と一致して働くのが難しくなります。
神の周波数は最も高いレベルの波動だからです。
特に祈り会は霊的戦いの側面が強い働きのひとつです。
悪魔・悪霊はミニストリーの中の「心に苦い根を持つ者」や「霊的に弱い者」を見つけるとすぐさま攻撃して来ます。
攻撃は必ず起こる事です。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Ⅰペテロ5:8)
敵は神の祈りがある領域を絶えず粉々に崩壊させることを目論んでいます。
それだけ信仰者の祈りが敵にダメージを与えている証拠です。
ですから神の働きに本格的に関わる前に、幼児期の親との関係による傷、トラウマからの解放、大きな罪の領域の聖め、血統から来る咎の断ち切りなど、これまで生きて来た人生に横たわる傷と隠された罪のすべてを、神の光の領域に持って行き、解放される必要があります。
あせって神の働きに入る前に、多くの解放を受けて、心を神の愛と平安で満たされた状態を保つことで、神の周波数と同期した祈りを捧げることが可能になります。
祈りに強弱があるのは何故か
ある人の祈りは力強く働き、ある人の祈りは手ごたえがないー実際に祈りの力にはかなり個人差があります。
理由はひと言で言うと信仰です。
信仰の強さが祈りの顕在化や影響力につながっています。
言葉の持つ周波数の強さを(偶然)利用して、奇跡が起こることもあります。
ですが、ほとんどの場合培ってきた祈りの時間と神との親密な時間ー信仰生活の深さと犠牲によります。
「深さ」と「犠牲」を例を挙げて説明します。
・ 仕事や用事から帰り、家の事をしたりスマホをチェックする代わりに、まず主に感謝の祈りを捧げる
・ 空いたスケジュールが出来たら、神との交わりの時に当て、一切の用事を入れない
個人的お願いの祈りをするのではなく、ただ神が自分に語りたいことに霊の耳を傾ける
・ 通常の起床時間より、30分1時間早く起きて、祈りを捧げて聖書を読む
・ 月に一度は断食し、年に1、2回(神に示された回数と日数)長い断食をする
…敵側の実話になりますが、オカルト魔術師たちは、毎日朝4時には起きて祈ると聞きました。
呪いがターゲットに届いて相手を苦しめたり殺したり、地域に病の霊・同性愛の霊・自殺の霊を蔓延させたり、自分の祈りがしっかり現実化する霊的確証を得るまで、何度でも何時間でも祈り続けると言います。
この話を何人かの元魔術師から聞いた時、人を呪う行為に嫌悪感を感じると同時に、わずか10分すら祈れない多くのクリスチャンの現状を思い、これでは負けるのも当然と霊的危機感を覚えたものです。
「クリスチャンて怠け者のことだろう?」そう言って笑う魔術師もいました。
悪しき霊に仕える者たちでさえ、そこまで犠牲を払っているのです。
私たちはあまりに世の惑わしに流され過ぎていないでしょうか。
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。
もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(Ⅰペテロ2:15-16)
この世と断絶して生きろと言う話ではなく(それでは神を知らない人々は救われません)神の御国に国籍を持つ者に与えられている使命を全うするためには、本来のライフスタイル(常に神と共に歩み、たゆまず祈る)に留まり続ける事が大切です。
私はこの地上生涯は、留学のようなものだと思っています。
学びのために留学した地で、本来なすべき事を放棄して遊んでばかりいたら、その後の人生は不毛です。
時には息抜きも必要ですが、留学中の大部分は学び(神の働き)に集中すべきです。
そうしてこそ、真の住まい(御国)に帰国後、主から大きな報酬を受けるのです。
救いは(確信犯的に不義を続けなければ)取り消されませんが、報酬は1人1人全く違います。
祈り会にとって、週一の祈り会よりも毎日継続的にひとりで祈る時の積み重ねは大変重要です。
ぜひ祈り会のとりなし課題を毎日お祈り下さい。
神に捧げた毎日の祈りが積み重なると、週に一度の祈り会で大きな爆発力ある祈りとして働きます。
神と完全に一致した祈りは次元上昇をもたらし、あなたのいる場所は御国がオーバーレイし、その働きが強まると、あなたの地域に御国が重なり、さらに地境が広がれば、国家と世界に御国がなる事も可能だと主は言われます。
「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28) ハレルヤ